今日は妊婦健診の帰りに、ジブリ最新作の「君たちはどう生きるか」を観てきました。
公開日に行けるなんて贅沢…。
1ヶ月ぶりの検診も嬉しいし、映画自体もかなり久し振りだったので本当に幸せでした。
快く見送ってくれて、家で仕事をしながらわんこを見てくれた夫に感謝です。
以下はネタバレしますので、ご注意ください。
「君たちはどう生きるか」の感想ですが、面白かったです。
大切な人との別れと新たな出会いを受け入れる少年の物語なのかなと思いました。
簡単すぎるかとも思いますが、今のところそんな風に受け取っています。
印象的だったのは、現実とファンタジー、生と死、若さ老い、出会い別れ、いろんな境目を行き来するところです。
といってもジブリは大体そうか。
でも、日本が舞台で昭和20年頃(だったと)からの物語だったので身近な感じがして、余計にファンタジーが際立っていたような気がします。
あとは、眞人(主人公)にしか見えていない幻想なのかそれとも実際に起ったことなのか、それか実際に起っているけど不思議な力であやふやにされているのか…
え、何?どういうこと?という感情が出てきては、置いてけぼりになりながら物語が進んでいきました。
気になったところをまとめてみると…
- とにかく生き物が大量
- 鳥たち
- 眞人の喋り方
- 食う食われる
- お母さんの1年間
- お母さんと継母
- 不思議の入口のある場所にはずっと居ない
まずはカエルにしても鯉にしてもペリカンやわらわら(新キャラクター)にしても、とにかくそんなに?っていうくらい描かれていました。
そういえば”わらわら”って?と思って意味を調べてみると、そんな風なことが書かれていました。
1 多くの人が群れ集ったり、群衆がばらばらと散っていったりするさま。動物についてもいう。「解散の合図で皆が―と散る」「小魚が―集まってくる」
2 破れ乱れたさま。ばらばら。「紙衣のきたなきが―と破 (や) れたるが上に」〈延慶本平家・六末〉
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%8F%E3%82%89%E3%82%8F%E3%82%89/
由来はぜんぜん違うかもしれませんが、いろいろ考えるのは楽しいですね。
話は戻って、どうしてこんなにも大量に同じ生き物を同じ画面に描くのかという疑問ですが、動物たちも”生きてる”と示したかった?不思議の世界への入り口?なんてことを考えています。
人間世界ではあんなに多くの生き物を一度に見てぞっとすることはほとんどありませんが、人間はそこら中にいます。
動物にしたら人間もそんな風に見えているのかもしれません。
そう考えると視点が動物側へ向かい、普段は見えないけれど同じように生きているということなのかなと思いました。
あとは、現実と不思議の世界の境界線やファンタジーの世界の中であることを示してるのかなとも思いました。
次は、登場する鳥たち。
アオサギにペリカン、インコ。
印象に残るシーンでどうして色んな種類の鳥を登場させたんだろう?身近な存在だからなんでしょうか。
なにか意味がありそうだけど、全然分かりませんでした。
眞人の喋り方も気になりました。
礼儀正しく、父にも継母にもきちんとした言葉遣いと振る舞いができる子です。
時代背景もあるのかもしれませんがきっちりしすぎな気がして、近しい存在の人に本音を言えない感じがしました。
新しい学校にはまだ友だちはおらず、ケンカをした帰り道に自分で石で頭に傷を作って血を流しながら帰宅していました。
心配して欲しい気持ちがあったのかな。
お父さんのことは大切なんだろうけど、本音は言えず現実では心を開ける存在はいないのでは?という印象でした。
でもアオサギにはというと、タメ口で不満も口にすることができていました。
少女時代のお母さんや若返ったお手伝いさんのキヨさん?にも、気軽に話せていました。
どれも現実には存在するようでしない、でも眞人の中には確実に存在しているという登場人物たちとの出会いが眞人自身を力強くしていて、それが現実世界で生きる力になったと思います。
お父さんとの再会で、自分より先に継母の名前を呼ばれたことも、新しい家族ができることも受け入れられる力になっただろうし、次は現実にいる自分の家族や友だちが眞人の支えになってくれるだろうと思いました。
眞人が食べられそうになったり、大きな魚を釣って捌いたり、わらわらが食べられたりと何かと食う食われるシーンが出てきました。
簡単すぎますが、生きるためには食べないといけないし、自分自身も食べられる、ということなんですかね。
生きられない命があるということを目にしてからやっと、この世に産まれて今生きていることが奇跡に思えたりするのかな。
わらわらがお魚を食べたあと空にぷわぁっと飛び立っていくシーンがあります。
そのまま地上に赤ちゃんとなって産まれ落ちていくそうなのですが、途中でペリカンに大半は食べられてしまうんです。
数年妊活・不妊治療をしていたので少し泣けました。
そして今お腹の中に居る赤ちゃんのことがより一層大切に思えました。
当たり前じゃないんだよな。
この子と一日一日一緒に過ごせていることがありがたいです。
でも時々忘れてしまうこともあることも本当で。
でも産まれるまでも、産まれてからも心配は尽きないことも本当です。
なにもかもひっくるめて自分だなと思います。
時々は立ち止まって今生きてくれてることとか皆で日々を過ごせてることとかに目を向けたいな。
次は、お母さんが少女だった頃にあった1年間の神隠し。
眞人と同じ世界に行ったお母さんは、現実の世界では1年間行方不明となっていました。
きっと時間の流れが違うからむこうの世界では数日とかだったのかもしれません。
それにしても、この描写はなんで必要だったんだろう?
親子だから同じ世界に引き込まれた?だからこそまた出会えた?
なんだかよく分かりませんでした。
お母さん関連でもう一つ。
物語の序盤で向こうの世界に行くとお母さんがいるとアオサギが言うので、行ってみるとそこには本当にお母さんが居ました。
けれど、眞人の目の前で溶けていってしまうんです。
なんて残酷な‥と思えるようなシーンですが、火事での母の死がトラウマになっている眞人にとって母親の死と正面から向き合うことが必要なんだったのだろうと思います。
ここで、一足先にこの世界に来ていた継母の姿も見つけて助け出そうとするのですがうまくいきません。
特にここはうろ覚えなのですが、登場人物の誰かが眞人に、継母のことが好きではないのに(居なくなって欲しいというような意味いの言葉だったと思います)どうして助けようとするのかということを言ったと思います。
眞人が蓋をしていた継母に対する感情にも向き合うようなシーンでした。
苦しいことって一旦向き合わないと前に進めないものなんですかね。
今すぐでなくとも、いつかは誰しもが何かしらの苦しみをじっくり見つめて整理する時が訪れるものなのかもしれません。
長くなりましたが、最後です。
不思議の入口のある場所にはずっと居ないなと思いました。
眞人の家族は3年後だったかに、このお屋敷から新しい家へと引っ越します。
向こうの世界へと繋がる場所から離れることにも、何か意味があるような気がしました。
もう不思議な力がなくても生きていくことができるからなのか。
どういうことなんだろう。
何回でも不思議な世界に行きたいし、不思議なことが起こって欲しいって思うけど、そんなんじゃ現実世界で生きていけないんだろうなと思います。
結局眞人は、夢物語でも真っさらな清い世界でもなく、別れや戦争…ありとあらゆるものの渦巻く現実で生きていくことを選びました。
色んな受け入れがたいことがある中で、時に幻想の友だちや別れた大切な人たち、時に今そこにいる支えとなっている存在と共に私たちも生きていくのかなと思いました。
折に触れて自分や周りの人が今ここに居ることが当たり前ではないことを思い出してみたり、他の生き物たちのことを考えてみたりしていきたいな、忘れそうだけど。
最後の最後に。
個人的には、眞人がお母さんことを本当に大好きなことと、お母さんが眞人のお母さんで良かったと言うところがぐっときました。
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